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織田家のスーパーエリート、丹羽長秀!安土城を支えた名参謀|研究ノート⑦

丹羽長秀は、織田信長に仕えていた人物です。
信長から「長秀は友であり兄弟である」と言われるほど信用されていた重要な家臣でした。

信長の家臣の中では最初に国を与えられた人物とも言われていて、若狭国(今の福井県)を任されたらしいよ。

画像:丹羽長秀肖像画
出典:Wikimedia Commons
ライセンス:Public Domain

長秀は政治的にも優れていて、どんな仕事でも完璧にこなしたと言われています。みっきーが一番すごいなーと思った活躍は、安土城を作る時に中心となって周りを指揮したことです。

安土城はたくさんの新しい技術を取り入れている城で、作るのがとても難しかったと思います。そんな大仕事をまとめあげるなんて、長秀すごいね!!

丹羽長秀のす・ご・い・ニックネーム「米の五郎左」

このように目まぐるしい活躍をした長秀には、とあるニックネーム(あだ名)があったんだって。

そのニックネームは……

デデン!!

「米の五郎左」だよ。
(五郎左とは丹羽長秀の幼名だよ。)

このあだ名は、「五郎左は織田家にとって、米のように大事な存在である」という意味でつけられたと言われています。

織田家にとって“米レベル”で大事なんて、長秀すごすぎる‼︎

丹羽長秀と本能寺の変

1582年、織田信長は、家臣になることを拒んだ長宗我部元親に対して、三男の織田信孝を総大将とした軍を送ります。

丹羽長秀はこの軍に同行するため、大阪に滞在していました。

その時、京都では、あの「本能寺の変」が起きていたのだー!!

「ガガガガーン! 親方様が〜!!(織田信長のこと) ががががーん!」
(by 丹羽長秀 ※イメージだよ。本当に言ったわけじゃないよ。)

この当時、豊臣秀吉は毛利家との戦いで備中高松城(今の岡山県)にいて、柴田勝家は上杉家との戦いのため魚津城(今の富山県)にいたらしいです。

長秀は、織田家の重臣たちの中では本能寺に一番近い場所にいたので、いち早く仇を討てる立場にいました。

しかし、兵たちが信長の死をすぐには信じられず、すぐに動けなかったとも言われています。

その後、中国大返しでめちゃめちゃ早く戻ってきた豊臣秀吉軍と合流し、山崎の戦いで明智光秀を倒しました。

丹羽長秀の清洲会議での立場

明智光秀が討たれた後、織田家の後継者を決める「清洲会議」が開かれました。

参加したのは、柴田勝家、丹羽長秀、豊臣秀吉、池田恒興の四人です。

柴田勝家は織田信孝を推しましたが、豊臣秀吉は三法師(後の織田秀信)を推しました。

そして、丹羽長秀と池田恒興が秀吉に賛同したため、三法師が信長の後継者となりました。

秀吉のもとで・・・

その後、権力を握った秀吉に不満を持った柴田勝家は、賤ヶ岳の戦いを起こします。

丹羽長秀は秀吉軍につき、勝利に貢献しました。

その功績で、越前国(今の福井県北東部)の大部分と加賀国(今の石川県南部)を与えられ、123万石を持つ大大名へと出世しました。

しかし、それ以降の長秀は北ノ庄城(今の福井県)にこもりがちとなり、豊臣秀吉に上洛を命じられても、なかなか動かなかったそうです。

丹羽長秀は、豊臣秀吉に反感を抱いていたとも言われています。

なぜかというと、賤ヶ岳の戦いで柴田側についた織田信孝を自害に追い込み、その母や娘たちも処刑するなど、織田家の一族を厳しく扱った秀吉に対して、不満を持っていたと考えられているからです。

まとめ|丹羽長秀は知力に優れた武将!

丹羽長秀、奥が深いね〜。

安土城を建設したり、山崎の戦いで豊臣秀吉と一緒に戦ったりしました。でも、その秀吉に反感を抱いていたかもしれないなんて、複雑!

今回調べてみて、丹羽長秀のすごいところがたくさん分かりました。

ちなみに、みっきーが一番すごいと思ったエピソードは、やっぱり安土城建設です!

あの最新技術を取り入れた城づくりの最高司令官になるなんて、とてもすごいと思います。

みっきーは、丹羽長秀は武力もあったと思うけど、それ以上に知力に長けていた武将なんじゃないかなと思いました。

また他の武将も調べてみたいです!

次の機会でお会いしましょう!!
(まあ、本当に会うわけじゃないけどね……。)

じゃあ、まったね〜〜🏯✨

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